一足お先に夏の陣! 真田丸ゆかりの地を巡る大阪の旅♪

一足お先に夏の陣真田丸ゆかりの地を巡る大阪の旅

今年の大河ドラマは真田丸真田幸村こと真田信繁が主人公なので、クライマックスは当然、大坂城の攻防を巡る「大阪夏の陣」ですね。
大阪の有名な観光地と言えば、大阪城に通天閣、道頓堀にUSJが定番。ですが、今回はせっかくなので、信繁が大活躍した徳川VS豊臣の最後の攻防、その名残を求めて大阪を歩いてみました。
もちろん、旅の楽しみランチ&カフェのポイントへもご案内します。お洒落な古民家カフェと大阪の陣には意外な関係があるんですよ♪

天王寺エリア〜真田VS徳川 最終決戦クライマックス〜

今回の旅では、JR大阪駅のある梅田を出発し、最も遠い天王寺から、徐々に大阪に帰ってくるコースを取りたいと思います。それは同時に、大阪城の外堀の更に外から本丸へと戻って来るコースであり、大阪城を巡る攻防の最後の決戦から時間を遡る旅になりました。

茶臼山
旅の初めは茶臼山
1614年(慶長19年)の大坂冬の陣では徳川家康が本陣を置いた場所です。翌1615年(慶長20年)の大坂夏の陣では真田信繁(幸村)の本陣として、「茶臼山の戦い(天王寺口の戦い)」の舞台となりました。

JR大阪駅から環状線に乗って一番遠い場所にあるのが天王寺駅。ここで降りると道ひとつ挟んだ向かい側に近鉄阿倍野駅、そして日本一高いビル・あべのハルカスがそびえています。
茶臼山に向かうには、あべのハルカスとは反対側の公園口から駅を出ます。公園口を出ると正面(西側)の天王寺動物園の入り口に続きますが、茶臼山に向かう場合は、谷町筋に沿って北へ向かいます。
堀越神社の前を通り過ぎ、ファミリーマート天王寺公園茶臼山店の北で左折し、駐車場の向こう側から天王寺公園に入ると、茶臼山が目の前に。

茶臼山の登り口
茶臼山の登り口

茶臼山は正確には茶臼山古墳と呼ばれ、5世紀頃に造られたと言われる前方後円墳で、現在は大阪市立美術館(旧住友家邸宅)、慶沢園とともに天王寺公園の一部となっています。

茶臼山の山頂
茶臼山の山頂

大阪の市街地にあるとは思えない静かな山(古墳ですが)。

「真田丸」では、「城」の重要性がクローズアップされる場面が印象に残ります。
敵地を見張ることのできる、山の上の良い場所を、誰が抑えるかでパワーバランスが変わる。その為に必死で城を取り合う武将たちの姿を見てからここに登ると、山の上から見る景色も違って来ますね。
第22回「裁定」では、北条家の家臣江雪斎と信繁が沼田城を巡って言い争いましたが、刀や弓を使わなくとも、あれはまさに城を取り合う「合戦」でした。そして小さな沼田城の行く末が、小田原攻めという大規模な戦いへと発展して行くなど、「城」の持つ意味を強く意識させるドラマの作り方になっていますね。

人工的に造られた、小高い山である茶臼山。今は樹々が生い茂って景色はあまり見えませんが、かつて信繁はここから、隣接する一心寺に陣を敷く家康を見下ろし、その首を狙っていたのかも知れません。

という訳で次は、家康が陣をおいていたとも言われる一心寺を訪れます。

一心寺
茶臼山を降りるとすぐに、一心寺の南門が現れます。
ここは骨仏の寺として知られ、宗旨に関係なく参詣や納骨を受け入れる寺でもあり、全国から多くの納骨が集まっています。そのため観光客ではなく、親類縁者の為の参拝の方が多く訪れていました。
このお寺のメインゲートである黒門は、かつては大坂城の三の丸玉造門を移設した大きな山門だったそうですが、空襲で焼失し、新たに近代的なデザインの門が建築されています。

一心寺黒門の仁王像
一心寺黒門の仁王像

仁王像も現代彫刻(作・神戸峰男)。

そして3つ目の門である北門を入ってすぐの場所に残る大きな松の幹。

霧降の松
霧降の松

幹とわずかな枝の残るこの松は、信繁の襲撃を受けた家康が身を隠したと伝えられています。その時、松が霧を吹いて家康を隠し、命を救ったことから「霧降の松」と呼ばれているのだとか…。真田の側から見れば、後一歩という所で家康を討ち取り損ねた非常に惜しい場所という事になりますね。

このお寺は他にも、夭折した家康の八男(仙千代)や、「天王寺口の戦い」で討ち死した徳川方の武将・本多忠朝の墓所があり、徳川家に所縁の深いお寺となっているようです。家康の戦いの中で、忠朝のような重臣が討ち取られたのはこの合戦のみということからも、この戦いの激しさが伺えますね。
「真田丸」でこの戦いがどう描かれるのか、クライマックスへ向けて今から楽しみです。

ちなみにこの本多忠朝は、「冬の陣」では飲酒が原因で遅れを取ったことで家康に叱責され、「夏の陣」では一念発起、酒を断って奮戦した事から、「酒封じの神様」として信仰を集めているそうです。
本多忠朝は本田忠勝の次男ですから、真田信之の正室稲(小松姫)の兄弟に当たりますね。果たしてこのエピソードも「真田丸」に登場するのでしょうか?密かに注目しておきましょう。

安井神社
一心寺の北門を出ると、道を一本挟んだ向こうに見えるのが、真田信繁最期の地となった安井神社です。
祭神は少彦名神ですが、天慶5年(942年)から菅原道真が祭られるようになり、別名を安居天神、安居天満宮とも呼ばれています。

安井神社社殿
安井神社社殿

家康を討ち取る所まで後一歩と迫りながら果たすことのできなかった信繁。
一旦退却し、この安居神社で負傷者の手当てを行いながら休息を取っていた所、越前松平勢の襲撃を受け、49年の生涯を閉じたと言われています。
実際に討ち取られたのは安居神社から200m離れた田んぼ(当時)だったという説もありますが、ともかく、境内には信繁が力尽きたという松の木「さなだ松(2代目)」も現存しています。

真田幸村(信繁)の像と石碑
真田幸村(信繁)の像と石碑

境内には真田幸村(信繁)戦死跡之碑と共に、最後の勇姿を再現した像も。
今は緑に囲まれた静謐な神社ですが、「真田丸」では主人公の、文字通りのラストシーンになるはず。この場面、ドラマではどんな風になるのでしょうか。

安井神社から通天閣を臨む
安井神社から通天閣を臨む

安井神社から一心寺を臨む。その背後には通天閣が。

茶臼山(天王寺公園)
〒543-0063 大阪府大阪市 天王寺区茶臼山町1−108
電話:06-6771-8401(天王寺動物公園事務所)

天王寺公園

一心寺
〒543-0062 大阪府大阪市天王寺区逢阪2−8−69
http://www.isshinji.or.jp/nokotsu.html

安井神社
〒543-0062 大阪府大阪市天王寺区逢阪1-3-24
http://www.jinjacho-osaka.net/osakafunai-no-jinjya/dai8sibu/tennouji-ku/m01i_06_tennouji_yasui.html
(大阪府神社庁Webサイトより)

玉造エリア~抜け穴もいっぱい?! ここが真田丸だ!~

次はここから、信繁が大阪城防衛のために築いた出城「真田丸」の痕跡を求めて玉造に向かいます。一旦天王寺駅に戻り、環状線玉造駅に向かうのが分かりやすいルートですが、ここではちょっと違うルートを通ることに。

天神坂
天神坂

安井神社の北側の出入り口を抜けると、右手に向かって坂道が伸びています。
天王寺七坂と呼ばれる七つの坂のひとつ、天神坂
この周囲は江戸時代に大阪城下から移転させられた寺院が多く、大阪市内では比較的静かな、緑も多い場所になります。
この天神坂を登ると谷町筋に出ますので、少し北へ行って地下鉄谷町線四天王寺夕陽ヶ丘駅から谷町9丁目へ。更に千日前線に乗り換え、鶴橋駅で降りて玉造筋を北へ向かいます。

このまま真っ直ぐ真田山方面へ向かっても良いのですが、ここでちょっと寄り道。

「真田丸」第19回「上洛」では、大阪にやって来た父・昌幸が信繁に、大阪城の弱点はどこかと尋ねます。天下の趨勢が定まりつつある時に、尚も城を見れば落とすことを考える父の時代感覚のズレを表現すると同時に、後に信繁が大阪城を守る立場で弱点を考える時の伏線にもなっているシーンですね。
そして迎える大阪冬の陣。大阪城の弱点である場所の防御を固めるべく、信繁は「真田丸」を築きます。それがここ、玉造の地。

「真田丸」第5回「窮地」にて、信繁が井戸から出てきたタヌキの親子を見て安土城への抜け穴の存在に気づく場面を覚えていますか?
あの場面は後に、信繁が抜け穴を使って大阪城を出入りすることへの伏線のようにも見えますね。

産湯稲荷神社
そんな信繁が使ったと言われる「抜け穴」の出入り口…と伝えられている場所は複数あるらしく、その内の一つがここ、産湯稲荷神社です。

産湯稲荷神社
産湯稲荷神社

小さな公園の隣の、小さいけどものすごく雰囲気のある神社でした。
一説によると、この神社の井戸から抜け穴が通じていたとの事。
もしかして、この井戸?

産湯稲荷神社の井戸
産湯稲荷神社の井戸

手押しのポンプが付いているので、もしかすると今でも水を汲んでいるのかも知れませんが、現在飲める水ではないようです。この外見からは、抜け穴に通じているようには全く見えませんが、真相は如何に。

三光神社

真田山公園
真田山公園

真田丸の跡地は、現在真田山と呼ばれる小高い丘陵地になっています。運動公園として親しまれている真田山公園を通過し、次の目的地三光神社へ。

玉造周辺の案内看板
玉造周辺の案内看板

周辺には、こんな風に幸村(信繁)ゆかりの場所への案内板ができていたので、これを頼りに周囲を歩きます。

真田幸村(信繁)の抜け穴で最も有名なのは恐らくここでしょう、三光神社

三光神社
三光神社

何故か境内で「真田丸」グッズを発売中でした。

三光神社の幸村(信繁)像
三光神社の幸村(信繁)像

立派な銅像。そして抜け穴の入り口。

抜け穴の入り口
抜け穴の入り口

流石に中に入ることはできません。現在は奥が崩落していて、先に進むことはできないそうです。信繁の抜け穴ではなく、真田丸を攻める側の前田勢の塹壕の跡だという説もありますが、冒険の始まりのようでどこかわくわくする佇まいですね。
三光神社は、反正天皇の時代の創建と伝えられ、武内宿禰の末裔である武川氏が代々神職として仕える由緒ある神社。裏手には、真田山旧陸軍墓地もあります。

心眼寺、そして真田丸跡
三光神社から西側に回り、心眼寺へ。
この心眼寺と私立明星中学校の間に伸びる道沿いに、かつてここに真田丸があったという顕彰碑が建てられています。

真田丸顕彰碑
真田丸顕彰碑

碑には真田丸の由来と、かつての地図などが掲示されていて、とても分かりやすいですね。
この顕彰碑と道路を隔てて斜め向かいに見える門から心眼寺へ。
ここも小さなお寺ですが、境内には信繁の墓標が。

心眼寺
心眼寺

「従五位下 真田左衛門佐豊臣信繁」とありますね。「真田丸」第27回「不信」にて信之・信繁兄弟が官位を授かる場面でこの名が登場しました。

真田信繁の墓碑
真田信繁の墓碑

歴史に詳しい方ならご存知かと思いますが、今では同じ意味に使われている「名字」と「姓」、元々は別のものでした。例えば真田氏の元の君主である武田氏の場合、名字は「武田」でも、元々は源氏の流れを汲んでいるという事で、姓(本姓)として「源」を名乗っていたのです。
同じように、この時代の有力な家は大抵、源氏、平氏、藤原氏、橘氏などの名門の血筋に(真偽のほどはともかく)連なるとして「姓」の形で名乗っていました。
秀吉も当初は平氏や藤原氏を名乗っていたようですが、最終的には朝廷から新しく作って貰った「豊臣」という姓を使うようになったそうです。

現在、教科書などで「豊臣秀吉」と呼ばれていますが、実は豊臣は「姓」なので、名字で言えば最後まで「羽柴秀吉」が正しいようです。そしてこの「豊臣」という姓は家臣たちにも与えられ、「功名が辻」の主人公山内一豊も豊臣姓を与えられた武将の一人だとか。
多くの大名は、夏の陣で豊臣氏が滅びた後は元の姓に戻したとの事ですが、信繁の墓標に今も「豊臣」の姓が残っているのを見ると、彼が豊臣に尽くした忠義を思い起こさずにいられません。

この周辺には他にも、「冬の陣」の際に信繁が戦勝を祈った「鎌八幡」と呼ばれる寺院「円珠庵」があります。
ただここは、信繁が鎌を立てて祈ったという榎の木が現在も信仰を集めており、願掛けのために訪れる人が絶えないため、興味本位での参拝は断っているようです。
なので今回はご遠慮させていただく事としました。

産湯稲荷神社
〒543-0028 大阪府大阪市天王寺区小橋町3-1
http://www12.plala.or.jp/HOUJI/jinja-1/newpage1209.htm
(大阪再発見!サイトより)

三光神社
〒543-0013 大阪府大阪市天王寺区玉造本町14-90
http://www.sankoujinja.com

心眼寺
〒543-0016 大阪市天王寺区餌差町2-22
http://www.osaka-amida48.net/index.php?大阪新四十八願所_第11番_心眼寺
(大阪新四十八願所阿弥陀巡礼 公式ホームページより)

空掘エリア〜大坂城南惣構掘の跡地でほっこりレトロなティータイム〜

「真田丸」のあった場所を後にし、大阪城三の丸の跡の玉造稲荷神社・そしていよいよ本丸へ…と向かうまえに、ちょっと寄り道。

大阪城の弱点であった城の南側。ここに信繁は「真田丸」を建てた訳ですが、この周囲には他にも、弱点を補強するための空掘が巡らされていました。それが大坂城南惣構(そうがまえ)。これは「冬の陣」の後、講和の条件として埋められてしまう訳ですが、今でも空掘町という地名が残っています。
そしてこの空掘町、空襲を免れたため大阪には珍しく古い民家が多く残っています。そして今、その古民家を利用したお洒落なカフェやショップが集まる場所に。

まずは、心眼寺から歩く事10分。坂道を下り、通称「どんどろ大師」と呼ばれる善福寺の角を左に折れて西に向かいます。

大坂城南惣構の跡?
大坂城南惣構の跡?

調査によれば、この左右に走っている道がかつての空掘の跡なのだそうですが、見ただけでは普通の道との違いは全くわからないですね。

ここから西に向かい、交差点を入ってすぐの場所にあるのが「こちかぜ」

こちかぜ
こちかぜ

古民家を改装した小さなカフェで、和食や季節の和菓子、そして趣向を凝らしたかき氷がいただけます。

松花堂弁当
松花堂弁当

お昼の食事は松花堂弁当と温麺セット。写真は松花堂弁当です。ご飯のおかわりがおひつで付いてくるので、しっかり食べたい人も安心。
そしてかき氷は定番のものからちょっと珍しいものまで。

かき氷「蓮見」
かき氷「蓮見」

写真は「蓮見」。蓮の実と、なんと白きくらげが使われています。
蓮の実の優しい甘さと、白きくらげのふわふわした食感で、ツーンと来る冷たさのない優しい口溶けのかき氷でした。底に蓮の実と白きくらげがたっぷり入っていて、意外に食べ応えもあります。

そしてもう一軒、地下鉄玉造駅から長堀鶴見緑地線に乗って松屋町へ。玩具などの問屋が繋がる松屋町(まっちゃまち)筋と、長堀通りの交差する駅前。
この辺りは高低差も大きく、かつての大阪城が台地の上にあった事を強く感じさせてくれます。
地下鉄の駅から地上へ出て、更に一段小高い場所へ。
ここにあるのが、古民家を再生したショップの集合施設「練−LEN-」があります。この周囲には、同じプロジェクトで作られた「萌−HOU-」、「惣−SOU-」の他、個人経営のお洒落なカフェやショップ・ギャラリーも点在しています。

個性的なお店と古民家の風情がマッチした心踊る空間、「練」。

お屋敷再生複合ショップ 練
お屋敷再生複合ショップ 練

ここで是非立ち寄りたいのがチョコレート専門店「エクチュア からほり「蔵」本店」です。
カフェが併設されていて、チョコレートを使ったスイーツが楽しめるのですが、ここの看板商品はチョコレートドリンク。「元々チョコレートは飲み物だった」という拘りから生まれた一杯。ラムやミントなどリキュールの入ったアレンジの他、濃さが2倍の商品も。

エクチュアのチョコレートドリンク
エクチュアのチョコレートドリンク

ノーマルでも十分、濃厚な甘さが楽しめるチョコレートドリンク。歩き回って疲れた体に染み渡ります。おまけのチョコボールはちょっとビターな大人の味わい。

こちかぜ
〒543-0018 大阪市天王寺区空清町2-22
営業時間/8:00~18:30(ラストオーダー18:00)
TEL 06- 6766-6505
松花堂弁当1,200円
http://kotikaze.com

エクチュア からほり「蔵」本店
〒542-0012 大阪市中央区谷町6-17-43 練-LEN-
営業時間/平日11:00〜22:00(ラストオーダー21:30)
日・祝日11:00〜21:00(ラストオーダー20:30)
定休日:水曜日
TEL:06-4304-8077
チョコレートドリンク702円〜
http://www.ek-chuah.co.jp

からほり御屋敷再生複合ショップ 練
〒540-0012 大阪府大阪市中央区谷町6丁目17−43
TEL:06-540-0012
http://len21.com/index.html

大阪城エリア〜豊臣家の夢の跡・森ノ宮から大阪城公園へ〜

一息ついたら、旅はいよいよ大詰め。
まずは一旦玉造へ戻り、北へ向かって歩きます。
赤い社殿が鮮やかな玉造稲荷神社へ。

玉造稲荷神社

玉造稲荷神社の社殿
玉造稲荷神社の社殿

玉造の地名は、もともと古代に勾玉などを作っていた玉作部が住んでいたという伝承によるものだそうです。そんな地に立つ玉造稲荷神社も由緒は古く、聖徳太子が蘇我氏について物部氏と戦った際、ここに布陣して戦勝を祈願し、勝利した後に観音堂を建立したという言い伝えがあるほど。
豊臣氏の時代に大坂城が建てられた時、この神社は三の丸の位置になりました。豊臣家はこの神社を大坂城の鎮守社として大切にし、慶長8年(1603年)、戦乱で荒廃した社殿が豊臣秀頼により再建されたとの事です。

玉造稲荷神社の秀頼像
玉造稲荷神社の秀頼像

境内には衣冠束帯姿の秀頼の銅像が。また、秀頼が寄進したという鳥居も残されています。

秀頼寄進の鳥居
秀頼寄進の鳥居

阪神・淡路大震災により損傷し、今は上下に分かれた形で祀られているとか。

また、ここには豊臣秀頼の胞衣も祀られています。もともとこの地に埋められていたものが、豊臣家を慕う当地の人々により密かに祀られていたのだとか。昭和20年、戦災により焼失後大阪の地を転々とした後、昭和58年(1983年)の大坂築城400年の年にこの地に戻されたそうです。
大阪の人々は、徳川の世になっても長く豊臣家を慕っていたのですね。だからこそ、豊臣家に最後まで尽くした真田幸村こと信繁が今の世にまで英雄として語り伝えられて来たのかも知れないと思いました。

夏の陣で再度焼失した社殿は、その後徳川幕府の城代や地元の氏子らによって再建されたのだそうです。

千利休の顕彰碑
千利休の顕彰碑

この玉造の地、禰宜(ねぎ)町にかつて千利休の屋敷があったと言われていることから、千利休の顕彰碑も建っています。
玉造稲荷で年に一度の行事として親しまれている「だんご茶会」は、千利休が秀吉らをもてなした野点の会が元になっているのだそうです。
「和敬静寂」の文字は利休の十五代目である茶道裏千家前家元千宗室の手によるもの。
「真田丸」第25回「別離」では、利休の死によって豊臣家に影が差して行く様子が印象的に描かれていましたね。今でも謎の多い利休の死に、新しい解釈が加えられていました。

豊國神社
玉造稲荷神社から北上し、森ノ宮まで着けば、そこはもう大坂城公園の南の入り口です。

この日はあいにくの天気でしたが、大坂城公園は今でも大阪市民の憩いの場。
本丸を目指して歩けば、徳川時代の堀が今でも残り、大坂城のかつての壮大さを伝えてくれます。

大坂城の堀
大坂城の堀

そして二の丸のあった場所に現在鎮座しているのが、豊臣秀吉を祀る豊國神社(ほうこくじんじゃ)です。
明治天皇の沙汰により、京都の豊国神社の大阪別社として創建。豊臣秀頼、豊臣秀長も配祀されているそうです。

豊國神社の鳥居と社殿
豊國神社の鳥居と社殿

農民の出自から天下を取った日本の出世頭の代表格・秀吉にあやかり、出世開運の神さまと言われています。
境内には堂々たる姿の秀吉公の姿が。

豊國神社に立つ秀吉の像
豊國神社に立つ秀吉の像

このお召し物はもしかして。

「真田丸」第23回「攻略」より
「真田丸」第23回「攻略」より

「真田丸」小田原攻めの際に小日向秀吉が着ていた陣羽織ですね。
こうしてみると、かなり忠実に再現されているようです。

大坂城本丸

大坂城天守閣
大坂城天守閣

いよいよ旅も大詰め。ついにたどり着きました。大坂城本丸
といっても、現在の大坂城天守閣は、秀吉が建てた大坂城ではありません。徳川幕府によって再建された後もしばしば火災などにあっていた大坂城は、1931年(昭和6年)に鉄骨鉄筋コンクリート構造の建物として新たに建造されました。

この昭和復興天守は結果的に、短命に終わった豊臣・徳川時代の天守閣に比べて最も長命な大坂城天守閣となっているそうです。貴重な昭和初期の建造物として、1997年(平成9年)には国の登録有形文化財に登録されました。1995年(平成7年)〜1997年(平成9年)の平成の大改修と2007年(平成19年)の外壁の塗り替えを経て今でも大阪の象徴に相応しい姿を見せてくれています。
ちなみにこの復興天守閣初層から4層までは徳川時代風、5層目は豊臣時代風のデザインになっているそうです。

玉造稲荷神社
〒540-0004 大阪府大阪市中央区中央区玉造2丁目3−8
http://www.inari.or.jp/menu.html

大坂城公園
〒540-0002 大阪府大阪市中央区大阪城3−15
http://osakacastlepark.jp
TEL/06-6755-4146
(大坂城パークセンター)

豊國神社
〒540-0002 大阪府大阪市中央区中央区大阪城2−1
http://www.osaka-hokokujinja.org/index.html

大坂城
大坂城

秀吉の築いた大坂城がそのまま残っている場所は少ないけれど、かつての大坂城をめぐる攻防の後を訪ねて回るだけでも、当時の大坂城のスケールの壮大さが伺える旅でした。

日本の政治と中心となるべく、難攻不落の名城として造られた大坂城。
「真田丸」での、初めて大坂城を目にして圧倒される信繁、それでもどうにかして攻略できないかと思案する昌幸の気持ちが改めて身近に感じられます。そしてドラマの方では今後に控えている冬の陣&夏の陣攻める家康、守る信繁の攻防を、臨場感を持って楽しめそうです。

この夏、あなたも大阪に出陣してみませんか?「真田丸」のこれからの展開が10倍楽しく見られるかもしれません♪

おまけ
大阪の道を説明する際、地元の人は「タテが筋で、ヨコが通り」と表現します。
「キタ」と呼ばれる梅田周辺と「ミナミ」と呼ばれる難波周辺を南北に繋ぐ大動脈「御堂筋」をはじめ、南北に走る大きな道の多くに「○○筋」という名前がついています。そして、そこを東西に横切る道には「○○通り」という名前がついてる事が多いので、大阪の街を歩く際には参考にして下さい。
大阪の道は、大通りから一本脇に入ると狭く入り組んだ道になっている所も多いので、慣れないうちは多少遠回りになっても、大きな道沿いを歩いた方が安心です。

今回のツアーでは、タテ方向だと松屋町筋、谷町筋、上町筋、玉造筋。ヨコ方向だと長堀通りや中央通りの名前を覚えておくと便利です。
また今回は地下鉄なども利用しましたが、自信がない場合はJR環状線の天王寺駅・玉造駅・森ノ宮駅・大坂城公園駅を利用するとわかりやすいと思います(但し、空堀町はJRの駅から行くのは遠いため、玉造駅または森ノ宮駅から地下鉄の利用がおすすめです)。

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